掛け軸の歴史: (4) 室町時代 | 和の文化の確立と茶道
投稿者 :翁志刚 on
宋元文化の影響は室町時代(1336年–1573年)になっても続き、 禅僧はそれらを体現する中国通の文化人として 地位を得る事となった。特に足利将軍に仕える同朋(どうほう)と呼ばれる芸術指南役の存在は大きく、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らの活躍によって更なる文化の広がりを見せ掛軸も発展していった。この時期には「詩画軸」(しがじく)と呼ばれる画面の上部の余白に画題にちなんだ漢詩を書いた掛軸が日本でも描かれるようになった。代表作として先ほどの同朋で紹介した芸阿弥が描いた「観瀑図」(かんばくず)や将軍と密接な関係にあった如拙(じょせつ)の「瓢鯰図」(ひょうねんず)などが挙げられる。
八代将軍である足利義政は特に文化活動を好み、それまでの武家、公家らの文化と濃厚な宋元文化を融合して東山文化を築き、後世の美術にとってのひとつの規範が出来上がった。現在わたしたちが「和室」と呼ぶ設えや、「和風」と呼んでいる様々な文化のほとんどがこの時代に形を整えられたと言われている。
「わび」、「さび」、「幽玄」などの日本特有の美意識もこの時期に熟成されたと考えられている。掛軸にとっては切っても切れない存在である「床の間」(正しくは「床」)の形もこの時代に完成された。 床の間で最も重要なものはその中に飾られる掛軸とされ、床の間は「日常と芸術を繋ぐ空間」として考えられ、風景や花鳥画、肖像画や詩などが人気の画題となっていった。またこの時期になると中国からもたらされた茶の人気が高まり「茶の湯」の文化が生まれていった。
様々な多様性を見せた室町時代前期~中期の美術だが、足利将軍の跡継ぎ問題によって続いた戦乱「応仁の乱」によって大きな影を落とす事となる。京都を舞台に十年以上も続いた戦乱により、京都市街をはじめ花の御所まで消失した為、古代以来の多くの絵画作品が失われた。この戦乱によりこれまでの古くからのしきたりや慣習、社会秩序が大きく変わると共に、美術史も様々な転機を迎える事となる。これまでの荘園制の崩壊と足利将軍の権威の失墜は、絵所預、同朋衆といった既成のシステムを弱体化させた一方で、京都が戦火に見舞われたことで多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ身を寄せたため、文化の地方伝播が進行した。大内氏の拠点山口で活躍した雪舟がその代表である。
このように戦国大名や町衆の文化状況への積極的な参画によって美術のマーケットは拡大・多様化した。この状況に絵師・絵師集団も新たな対応を迫られるが、そこで成功をおさめたのは、将軍などのお抱えという権威を世襲制によって維持しながら、より企業的な合理性をもちえた集団であった。絵画における狩野派は、その典型である。周文・宗湛(そうたん)の後を継いで将軍関係の御用をつとめた狩野正信に始まる狩野派は多くの画家を組織化し分業システムを確立した。これにより上層から下層までの広い顧客層の様々な要望に応える事を可能にしマーケットを席巻した。
茶の湯の文化に関しても足利義政の茶の師匠である村田珠光が応仁の乱前まで続いていた茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。千利休が掛軸の重要性を言葉にするようになると、茶を愛する人達により掛軸が爆発的に流行するようになる。来客者、季節、昼夜の時間を考慮して掛軸を取り替える習慣が生まれ、来賓時、その場面の格式などを掛軸で表現することが重要視される考え方が生まれていった。
また鎌倉時代には仏教の様々な宗派が生まれた。その中の一つである浄土真宗では「南無阿弥陀仏」の六字名号を本尊とし、中興の祖である蓮如(1415年-1499年)は「木像よりは絵像、絵像よりは名号」が重要とし門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」に名号を書き与えて布教活動に務めたとされる。これにより浄土真宗門徒の多い地域では「南無阿弥陀仏」の掛軸が根付いていく事になる
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