掛け軸の歴史: (5) 掛軸の歴史: 安土桃山時代 | 権力者による華やかな文化

投稿者 :翁志刚 on

桃山時代(1573年 – 1603年)には時の権力者である織田信長と豊臣秀吉が茶の湯を非常に好んだ事もあり、床の間の様式は急速に発展し、それに伴って絵画技術や表装技術も更なる発展をしていった。わずか50年に満たない短い時代だが、美術史で重要視されるのは、それまでの時代に比べて変化がはやく、豪華でわかりやすい作品が今に伝わっているからといえる。日本美術の大きな特徴である豊かな装飾性は、この時代にひとつのピークを迎えた。特に信長・秀吉に重用され、その造営した城郭・殿舎の大半に腕を揮った狩野永徳は、文字通り天下人の御用絵師であり、桃山時代を代表する画家であった。この時代の末期は再び天下が乱れる事となり、狩野派は各権力者にそれぞれ一派を分散させる事により生き残りを画策したと言われている。狩野探幽は弟の尚信・安信とともに徳川将軍家の御用絵師としてその地位を確立し、その後の流派の繁栄の基礎を築いた。その一方で豊臣家と密接な関係があった狩野山楽の画系は、京都に残り活躍する事となった。これを「京狩野」という。

桃山時代には、狩野派のほかに長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔、曾我直庵などの有力な画家が輩出し、それぞれに流派を形成した。また琳派の祖となる本阿弥光悦や俵屋宗達が活躍したのもこの桃山時代から江戸時代初期である。

注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。


この投稿をシェアする



← 投稿順 新着順 →


0件のコメント

コメントを残す

コメントは承認され次第、表示されます。