掛け軸の歴史: (6) 江戸時代 | 狩野派を中心とした文化の成熟期

投稿者 :翁志刚 on

長い戦乱の時代が終わり、17世紀の初めには徳川家による支配が確かなものとなり、美術の世界でも次第に熟成された表現が生まれていく。狩野永徳の孫・探幽は若いころから徳川家との密接な関係を築き、幕藩体制における狩野派の地位を盤石の物とした。将軍に直接まみえる事が出来る奥絵師という画壇のヒエラルキーの頂点にあり、日本全国の大名諸侯の御用絵師を務めたのもほとんどが狩野派であり、町人相手に絵を教える「町狩野」と呼ばれる画人もいた。江戸時代(1603年 – 1868年)において画家になろうと志す若者たちは、すべからく狩野派に学ぶように組織化されていたといえる。この時代に多くの画家を輩出した背景にはこうした狩野派が絵画教育の基本的部分を担い、世間の美術的素養の底上げと拡大を行った所にある。逆にその結果、流派の存続こそが狩野派の至上の目的と化し、突出した個性を排除しがちになったとされる。( 例: 久隅守景や英一蝶など)

また明朝式表具が日本へ入り、文人画には文人表装などが用いられ、表具の技術技巧が著しく発展を遂げた。大和錦・絵錦唐織など複雑な文様の織物が好まれ、西陣など織物産地で次々生まれていった。

18世紀には、江戸を中心とする狩野派とは別軸で京都画壇が栄え、日本画を楽しむという価値観を持った人達に支持され、掛軸もそれにつれ芸術価値を高めていき肉筆浮世絵の分野でも花開いた。

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