掛け軸の歴史: (7) 明治時代 | 西洋画の衝撃から世界に通用する日本画へ

投稿者 :翁志刚 on

明治維新という一種の革命の後で、明治時代(1868年 – 1912年)初期の美術は未分化の混沌とした状態に陥った。徳川幕府というパトロンを失った狩野派は解散し、生活に困窮し画家から新たな職業に就いた者なども存在した。また西洋画の流入によりこれまで明確に意識されてこなかった自国の絵画について定義をしながらその上で新たに世界に通用する日本画の模索を同時並行で行う事となるが、相対的に明治初期は西洋の物に注目が集まり、それに比べ日本の芸術品の評価は低い物となっていった。さらに追い打ちをかけたのが政府から出された神仏分離令の拡大解釈により発生した廃仏毀釈の運動が掛軸を含む多くの仏教美術を荒廃させた。

しかしその後、アメリカのアーネスト・フェノロサによって日本美術の優秀さが説かれ、狩野芳崖らの画技が称揚され、明治になって力を失ってしまった日本画の画家たちは希望を得た。フェノロサと活動を共にした岡倉天心は東京美術学校(今の東京芸術大学)の開校に尽力し、後に日本美術院をつくる画家たちである横山大観、菱田春草、下村観山らが入学してきた。彼らに代表される革新派と旧来の伝統画の枠組みを重要視する保守派による切磋琢磨、また大きな枠組みである日本画と西洋画との切磋琢磨、自国の文化を世界基準にまで高め先進国入りを果たしたい政府の存在などが複雑に絡み合いながらこの時代の日本画は再び活気を取り戻していく。

明治時代以降は人々が自由に自分の職業を選べるようになった為、画家となる人口も増加し日本絵画は隆盛を極めていき、それに伴い掛軸の人気も飛躍的に高まっていった。

掛軸の人気に伴い、掛軸用の裂地もこの時代に多く製造されるようになる。これまで掛軸に使われていた裂地は多くは着物などを解いて用いられていた為、裂地の紋様が大きい物が多かったが、明治時代以降からは紋様の小さな掛軸の魅力を引き立てるのにふさわしい裂地が多く製造されるようになる。

1894年(明治27年)と1904年(明治37年)に、日本は日清戦争と日露戦争を戦い勝利した。このふたつの勝利により明治政府が目標としていた富国強兵の先進国入りが実現したという思いを日本は持つようになる。先進国としての文化を示すため、政府は国主催のおおがかりな展覧会を開く事を考え、1907年(明治40年)に文展(文部省美術展覧会、後の日展)が誕生する。画家たちに権威と名誉が授けられ、国家の美術となっていき、明治の美術は時代の終わりを迎える。

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