掛け軸の知識
掛け軸の歴史: (11) バブルの崩壊~現代 | 長く続く衰退期
投稿者 :翁志刚 on
1990年代に入りこれまでの好景気が終焉を迎え(バブル崩壊)、徐々に美術市場の盛り上がりが衰退していく。またこの頃から日本人の価値観の変化が顕著になってきだし、床の間をはじめ和室を持たない建物も増加していく。伝統的な行事も簡素化に向かう中、掛軸の需要は衰退の一途を辿っている。高度経済成長期に生まれた掛軸に関連する事業者も減少し続け、掛軸を製造する職人(表具師)の後継者不足も深刻な問題であり廃業する事業者も多い。 注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。
掛け軸の歴史: (10) 戦後~高度経済成長期 | 活気を取り戻した日本美術
投稿者 :翁志刚 on
戦後の美術は、まず戦前から活躍していた作家達を中心にして再スタートを切る。戦争体験をどのようにとらえるかを大きな問題として出発した。その後、世界の美術の中心となったアメリアで生まれた様々な表現方法が日本にもたらされ、美術の境界はあいまいになり美術表現は多様化していった。1970年(昭和45年)に大阪で開催された万国博覧会は数多くの美術家、建築家、デザイナーが参加した一大イベントであり、戦後に登場した実験的な美術が大きな位置を占め、再び日本の美術に活気が戻ってきた。 日本画では1974年(昭和49年)、創造美術を前身とする新制作協会日本画部が独立して、創画会が結成された。こうして日本画界は、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄らの日展、奥村土牛、小倉遊亀、平山郁夫らの院展、上村松篁、山本丘人、加山又造らの創画会に大きく三分される事となる。 戦後の復興~経済成長に伴い空前のマイホームブームが日本で起こる。これにより床の間付の和室を持つ家庭が急増し、掛軸の需要が一気に高まる。需要に応じて様々な画題が考えられるようになり掛軸絵画の技法や表現もピークを迎える。 注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。
掛け軸の歴史: (9) 昭和前期 | 戦争の影響
投稿者 :翁志刚 on
1931年(昭和6年)に満州事変が起こって以後、美術の世界にも軍国主義の影響が次第に強まる。一部の画家たちは、自由な制作活動を通じて、戦争へと向かう国家に抵抗する姿勢を示したが、多くの画家たちは戦争に協力する道を選ぶ他なかった。1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入し、軍部は戦争に反対する美術家たちを弾圧する一方で、日本軍の勇ましい戦いぶりを描く戦争記録画の製作を画家達に依頼し、従軍画家として戦地に赴き戦争画の製作を行い、それらを並べた戦争美術展が戦意高揚を目的に相次いで開かれた。また、数多く出版されていた美術雑誌も、取り締まりによってまず八誌となり、次に二誌となり、最後には一誌だけに制限された。1944年(昭和19年)には公募展も禁止される。 注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。
掛け軸の歴史: (8) 大正時代 | 自我と個性を尊重する芸術
投稿者 :翁志刚 on
自我と個性を尊重する風潮が高まった大正時代(1912年 – 1926年)において「美術は個人の自由な意思による創作によって成立する」というイデオロギーの元、国家をバックにした文展に反発する画家達が出現するようになる。その代表的な団体が日本美術院である。明治時代に岡倉天心を中心に設立されたこの団体は、様々な事情により活動が停滞していたが、岡倉天心の死を受けて弟子である横山大観を中心に再興された。新しく復活した日本美術院が行った展覧会を「再興院展」と呼び、今村紫洸、安田靫彦、速水御舟、小川芋銭、小林古径、前田青邨など若く優れた画家達が登場する。文展、再興院展の他にも多くの団体や画家が登場しそれぞれのイデオロギーの元、切磋琢磨する事により明治時代に続き大正時代も日本美術の発展は続いた。 注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。
掛け軸の歴史: (7) 明治時代 | 西洋画の衝撃から世界に通用する日本画へ
投稿者 :翁志刚 on
明治維新という一種の革命の後で、明治時代(1868年 – 1912年)初期の美術は未分化の混沌とした状態に陥った。徳川幕府というパトロンを失った狩野派は解散し、生活に困窮し画家から新たな職業に就いた者なども存在した。また西洋画の流入によりこれまで明確に意識されてこなかった自国の絵画について定義をしながらその上で新たに世界に通用する日本画の模索を同時並行で行う事となるが、相対的に明治初期は西洋の物に注目が集まり、それに比べ日本の芸術品の評価は低い物となっていった。さらに追い打ちをかけたのが政府から出された神仏分離令の拡大解釈により発生した廃仏毀釈の運動が掛軸を含む多くの仏教美術を荒廃させた。 しかしその後、アメリカのアーネスト・フェノロサによって日本美術の優秀さが説かれ、狩野芳崖らの画技が称揚され、明治になって力を失ってしまった日本画の画家たちは希望を得た。フェノロサと活動を共にした岡倉天心は東京美術学校(今の東京芸術大学)の開校に尽力し、後に日本美術院をつくる画家たちである横山大観、菱田春草、下村観山らが入学してきた。彼らに代表される革新派と旧来の伝統画の枠組みを重要視する保守派による切磋琢磨、また大きな枠組みである日本画と西洋画との切磋琢磨、自国の文化を世界基準にまで高め先進国入りを果たしたい政府の存在などが複雑に絡み合いながらこの時代の日本画は再び活気を取り戻していく。 明治時代以降は人々が自由に自分の職業を選べるようになった為、画家となる人口も増加し日本絵画は隆盛を極めていき、それに伴い掛軸の人気も飛躍的に高まっていった。 掛軸の人気に伴い、掛軸用の裂地もこの時代に多く製造されるようになる。これまで掛軸に使われていた裂地は多くは着物などを解いて用いられていた為、裂地の紋様が大きい物が多かったが、明治時代以降からは紋様の小さな掛軸の魅力を引き立てるのにふさわしい裂地が多く製造されるようになる。 1894年(明治27年)と1904年(明治37年)に、日本は日清戦争と日露戦争を戦い勝利した。このふたつの勝利により明治政府が目標としていた富国強兵の先進国入りが実現したという思いを日本は持つようになる。先進国としての文化を示すため、政府は国主催のおおがかりな展覧会を開く事を考え、1907年(明治40年)に文展(文部省美術展覧会、後の日展)が誕生する。画家たちに権威と名誉が授けられ、国家の美術となっていき、明治の美術は時代の終わりを迎える。 注:この記事は「nomurakakejiku」からの抜粋です。もしこの記事が著作権侵害に当たるならば、著作権者が私達に知らせてください、私達は直ちにこの記事を削除します。